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最高裁判所第三小法廷 昭和28年(オ)805号 判決

上告人 久木田アヒノ 外三名

被上告人 松下正治

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人鍛冶利一、同吉井晃の上告理由は末尾添付別紙記載のとおりであるが、原判決挙示の関係証拠を綜合するときは松下マツが其の死亡前十数年間事実上の夫婦関係を結んで居た中尾浩の実弟である被上告人をその家督相続人に指定する決意を有して居たとの原審認定事実を認定し得ないではないから、右松下マツ名義の「被上告人を家督相続人に指定する」旨の届出が昭和一六年三月二七日居町々長によつて受理されたことにつき争いのない本件にあつては、原審が右指定の効力を認めるにつき妨げなく(大審院、昭和一一年六月三〇日第二民事部言渡、同年(オ)第七八三号事件判決参照)此の点に於て原判決に所論の如き違法はない。其の他の論旨は「最高裁判所における民事上告事件の審判の特例に関する法律」(昭和二五年五月四日法律一三八号)一号乃至三号のいずれにも該当せず、又同法にいわゆる「法令の解釈に関する重要な主張を含む」ものと認められない。

よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 本村善太郎 裁判官 島保 裁判官 河村又介 裁判官 小林俊三 裁判官 垂水克己)

昭和二八年(オ)第八〇五号

上告人 久木田アヒノ 外三名

被上告人 松下正治

上告代理人鍛冶利一、同吉井晃の上告理由

第一点原判決其理由において

「仍て前示被控訴人を松下マツの意思に基かない無効のものであるか否かの争点に付案ずるに原審並当審証人切通清吉、川原仙太郎、松尾直行、当審証人有田太助、堀切篤敬、原審証人切通シヅの各証言を綜合し原審並当審当事者訊問に於ける被控訴人の陳述を参酌して考うるときは訴外松下マツは前段冒頭認定の如く永年間に亘り訴外中尾浩と事実上の夫婦関係を結び松下家の家事は挙げて右浩に委ねていたが夫婦間に実子を儲くることが出来なかつたのでマツは其の死亡十数年前から事実上の夫浩の実弟である被控訴人を家督相続人に指定することを決意し居り其の病臥前から右の手続一切を右浩に委ねたのであつたが右浩が荏苒日を空うしている内松下マツの病が改つたので右浩は急遽前段認定の如く松下マツ名義で家督相続人指定の届出をなしたことを認定し得」

と判示した。即ち、

(1)  マツは其の死亡十数年前から事実上の夫浩の実弟である被上告人を家督相続人に指定することを決意していたこと

(2)  マツは其の病臥前から右の手続一切を右浩に委ねてあつたこと

を認定したのである。

旧民法第九七九条によれば被相続人は家督相続人を指定することはできるけれども、家督相続人の指定は之を戸籍吏に届出できることに因りて始めて其の効力を生ずるものである。(旧民法第九八〇条)

故にマツが被上告人を家督相続人に指定することを決意していたとしても、この決意だけでは何等の効力も生じない、戸籍吏に対して被上告人を家督相続人に指定する旨の届出をすることによつて始めて指定の効力を生ずるのである。

而して家督相続人の指定の意思決定及び戸籍吏に対する届出は被上告人たるマツ自身がこれを為すことを要し、他人にこれを代理せしめることは許されない。

故にマツが意思決定した家督相続人の指定を戸籍吏に対する届出と云う方式により意思表示することにより被上告人を家督相続人に指定する行為が成立するのであつて、被相続人でない浩はこれを戸籍吏に届出でるという事実行為についてマツの意思表示の伝達機関(使者)となり得るに過ぎない、浩が指定の意思決定をすることは許されないし、又浩が代理人となつて戸籍吏に対して指定の届出(意思表示)をすることも許されないものである。

翻つて原審挙示の証拠を見るに、

切通精吉の第一審証言

『私が松下家の後継ぎの問題で聴いたことは丁度十二、三年前亡マツの家は大分蚕を飼つていましたので私も加勢に行つていましたがその時マツが疲れた疲れたと云つたことがあります、それで私がそんなに疲れる丈せんでも息子を貰つて楽にされたらと云う意味のことを申しましたところマツが「わいがそげんことを言はんでも後で分る」(お前がそんなことを言はなくとも後で分ると云う意)と言つた丈で、私も人情としてこんなことはどうかして聞きたいと思つて聞きなおして見ましたところマツの主人の弟である被告正治が後継ぎをするのだと聞いたことがあります、その事は私の外に宮野タツがきいています、マツの生前松下家の相続人の事について世間ではどう云つているか私は聞いたことがありません』

同人の原審証言には

「何時でありましたか判然とは覚へて居りませんが松下家で養蚕をしていた頃証人がその加勢に行つたときにマツが身体の苦痛を訴へたことがありましたので証人が跡継ぎの心配をしてマツにその話しをしたところマツは跡継ぎはもうちやんと決まつているのだからお前が心配しなくてもよいと云つたことがあります、その時は証人はその相続人が誰であるのか聞かなかつたので知りませんでしたが養蚕が済んでからマツは証人にその人は浩の弟である正治だと聞かしたことがあります」

川原仙太郎の第一審証言には

『その後又右の夫婦の間には子供がなく松下家の後継の事について問題が起きたのであります。

といいますのは

昭和十四、五年頃の筍のある頃でしたから三月頃だつたと思いますが松下マツさんが筍を二本持つて私の家に来られて顔を剃つて貰い度いと云はれたのですがその日は生憎散髪屋が休業日でしたので職人が居らず顔剃は明日にでも来なさい、まあお茶でも呑みなさいと云つてその茶のみ、浩にマツさんが云はれるには「仙太郎私ほど心配性のものはない」と云はれるので私が「何か心配することでもあるのですか、食う丈は持つているのに」と話しました処「食うのは心配はないのだが子供が一人も居ないから又松下家に養子を貰はなければならない」と云はれ夫(浩)の弟正治を養子に決めたと云はれました』

同人の原審証言には

「証人方は代々の床屋ですが昭和十四年頃の筍の時期にマツが顔そりに来たことがあります、丁度その日は床屋の休み日でしたので顔そりはせず茶飲み話にマツは夫である中尾浩が松下家の籍には入れないのでその弟である正治を松下家の養子にするから正治をよろしく頼むと証人に云つたことがあります、それで証人はマツが生前相続人を正治に決めていたことはよく知つています」

とあつて、松下マツが病気になるより前に被上告人を後継にしようと云つていたと云う事実を示すに過ぎない。更に被上告人の供述を見るも、

第一審において、

「私が松下家の相続人となり松下の姓を名乗る様うになつたのは私が上海に居住していて青島上海間の定期貨物船の船員をしている時分浩マツ夫婦から私のところに養子になつてくれないだろうかと云う手紙が来又西方に郵便局をしている九郎兄のところからも手紙が来て郵便局を継ぐ資格のある者がいないから私に続いで貰う考へでその事を兄浩の方に相談したところ、松下家の後継者に適当な人がないから私を西方の郵便局の方を継がせる訳けには行かないと云はれたものだから仕方なく松下家の方は旧家でもある事だから松下家の方を継がせたらどうかと云う事で断念したと云う意味の手紙が来たことがありました。

右のような事情から私が松下家の相続人として松下の姓を名乗る様うになつたのであります」

と供述し、

原審においても、

「私は船乗りをしていた昭和十三年頃船が川内川口に寄港したことがありましたのでその際上陸して西方と阿久根にそれぞれ一泊して阿久根では松下家に泊つたのでありますがその頃から私をマツの相続人にすることを決めている風でありました。

そして私が定期航路の船長として上海に居住していた昭和十六年の三月頃に浩から手紙でマツが病気になり容態が危ないからお前を松下家に入籍したいと云つて来たのでありますが私がこれに対し自分は食うに困るような生活をしているわけでもないし年令も大して違はないのであるから他に適当な人を選んでくれと返事しておいたのであります」

と供述している。

故に右の証拠はマツが病気になる以前に被上告人を跡継にする考へであつたことを示すに止まり、跡継にすると云うのは被上告人を養子にして相続させようと思つていたに止まる。

被上告人を相続人にする方法には養子縁組をすること、家督相続人に指定することと二つあるのであるが右証拠によれば被上告人を養子にしようと考へていたことを示しているが家督相続人に指定しようと定めていたことは少しも示されていない。

更に原審は「松下家の家事は挙げて右浩に委ねてあつた」と判示しているが、そのような証拠は毫も存在しないのである。

進んで他の証拠を見ても、

有田太助の原審証言は、

「松下家は証人の旦那の家ではありましたけれども証人は盆、正月に出入りする位のもので朝夕出入りしていたわけではありませんから松下家の養子問題など内輪のことについては、よく知り兼ねます」

ですからマツの生存中に久木田、川上の両家からマツの養子を入れようとしたこともマツがこれをきらつて浩の弟正治を相続人に決めていたと云うことも証人は知りませんがマツが死亡してから証人は伯父の川原仙太郎や田中伊之助等からマツの相続人は正治であると聞きましたし世間一般の人々も正治がマツの相続人であると認めています。

「証人はマツが死亡する一週間位前に田中伊之助に誘はれてマツの病気見舞に行きましたが証人は松下家の詳しい内輪話をきかされるような身分立場でないので見舞の言葉を述べただけで退りましたからマツが生前相続人のことでどんなに云つていたか知りません」

と云うにあり、マツが被上告人を家督相続人に指定することを決意していたかどうかは知らないと証言しているのである。

また切通シヅの第一審証言は

「マツさんからは松下家の養子の事については何もきいて居りませんでしたが夫から聞いたところによるとマツさんが浩さんの弟さんが松下家の養子に決つて居ると云うことを話して居られたそうであります」

と云うにあつて、同人も、松下マツが被上告人を家督相続人に指定することを決意していたかどうかは何にも知らないのであり、ただ夫から被上告人が養子となることに決つていると云うことを聞いたに過ぎない。

養子縁組と家督相続人の指定とは全然別箇の法律行為であつて、養子縁組をすることに決意していたからとて家督相続人指定の決意をしたことにはならない。

次に堀切篤敬の原審証言も

「証人はマツと浩が夫婦関係にあることもその間に子供がなかつたことも知つていましたがマツの相続人のことについては何も聞いたことがなく知りませんでした、ところがマツの死亡後浩から松下の財産の何筆かを浩の後妻の正子に贈与する登記を頼まれましたので役場を調べたとき、はじめて正治がマツの指定相続人となつていることを知りました」

と云うにあつて、マツの相続人のことについては何もきいたことがないというのだから、マツが被上告人を家督相続人に指定することを決意していた証拠とはならないこと明白である。

最後に松尾直行の証言を見るに、第一審においては、

「甲第二十四号証写を示した

一、只今お示しの如き家督相続人指定届を松下浩から依頼されて私が書いたことがあります、

一、その時松下浩は松下マツが危篤で意識がないから正治を同人の家督相続人にしておいた方が都合がよいからということを云つて居りました」

原審においては、

「甲第二十四号証(家督相続人指定届)を示す

二、これは証人が書いたものに相違ありません中尾浩が松下マツが病気で危篤であるが自分の戸籍は中尾であり松下の籍に入れないのでマツが死亡すると松下の後継がなくなるから自分の弟の正治を相続人にしてくれと頼んで来たので外に何も書類等持つて来ず重大なことであるかどうか証人は知らなかつたのですが、とにかく中尾浩が依頼する通り書いたものであります」

と証言しており、浩はマツが危篤で意識不明となり死亡することが予想されたので、自分は松下家に入籍することができず、その儘ではマツが死亡すれば相続人がないから、被上告人を家督相続人に指定することとし其の届出の作成を松尾証人に依頼し、これによつてマツ名義で家督相続人指定届書(甲第二十四号証)を戸籍吏に提出したことを示している。

原審がこれ等の証拠により前示のような認定をしたのはマツは病気になる以前に被上告人を後継(相続人)にしようと決意していたのである。

被上告人をマツの相続人にする法律上の手段は養子縁組をする方法と家督相続人に指定する方法とがある。而して被上告人を自分の相続人にするのがマツの意思なのだから、浩にその手続を委任した以上は浩はその目的を達する方法を採ればよいのであつて、家督相続人を指定することを委任されたこととなるのだと云うにある。と察せられる。

(1)  若し然らずしてマツは被上告人を家督相続人にすることを決意して居りその手続一切を浩に委任したと云うのであれば、左様な事実は原審挙示の証拠に何等示されていないこと上述の通りであるから原判決は証拠の趣旨をはなれて事実を認定したものであり破棄を免かれない。

(2)  マツは被上告人を自己の後継(相続人)とすることを決意しており其手続一切を浩に委任したとしても、被上告人をマツの相続人とする法律上の手段には、養子縁組と家督相続人に指定することの二途がある。故に浩が被上告人を家督相続人に指定の手続をした行為を是認するのは、マツは被上告人を自己の相続人にするについて其れが養子縁組であろうが、家督相続人の指定であろうが、その手続一切を浩に委任したということに外ならぬ。即ちマツはどんな方法でも被上告人が自分の相続人となればよいから其手続一切を浩に委任したものである。

然るが故に浩が家督相続人指定の手続を採つたのは結局被上告人を自分の家督相続人とすると云うマツの意思に合致するからよろしい。と云うことになる。

しかし養子縁組と家督相続人の指定とは全く別種の異つた法律行為である。

従つてその何れでも手続の一切を挙げて浩に委任するということは、浩に家督相続人の指定という法律行為自体の代理を委任するものに外ならない。蓋し、家督相続人の指定は戸籍吏に届出づることによつて成立する行為であつて、(民法第九八〇)それが家督相続人の指定の意思表示であるから、浩の意思決定により家督相続人の指定をすることとしその意思表示(届出)することを委任するのは浩を代理人として家督相続人の指定をすることだからである。

家督相続人の指定は本人が自ら為すことを要し代理によつてすることは許されない。これは身分行為であるから強行法規によつて禁止されているものである。即ち家督相続人の指定は代理に親しまない行為なのである。故にこの為した家督相続人の指定は無効であり原判決がこれを有効なりとしたのは重大な法律違背であつて原判決は破棄を免かれない。

(3)  原判決は、マツは其病臥前から被上告人を自己の家督相続人に指定する手続一切を浩に委任していた。と判示するが、

原審挙示の証拠の何処にも左様な事実を示すものはない。単にマツは被上告人を自己の後継又は養子或は相続人にすることに決めていたことを示すものがあるに過ぎない。

家督相続人の指定はこれを戸籍吏に対して届出ることによつて始めて成立する要式行為であり、単にマツが被上告人を後継又は養子或は相続人にすることに決意していたとしても、これはまだ表示されない内心的効果意思に過ず何の法律効果も生じない。戸籍吏に届出でることによりこれを外部に表示して始めて家督相続人の指定と云う法律行為が成立するのであるから、マツが被上告人を自己の跡継ぎ又は養子或は相続人にする内心的効果意思をもつていたと云う証拠では同人が浩に対して被上告人を家督相続人に指定する手続一切を委任したとの事実を肯定することを得ないこと明らかである。

原判決はこの点に於ては民法第九八〇条を看過したか然らざれば証拠によらず事実を認定した違法がある。

原判決は以上何れよりするも破毀を免かれないと信ずる。

第二点原判決は其理由において

「尤も訴外中尾浩が訴外松下マツの委頼に基き前記家督相続人指定届出を為した当時松下マツが病改り意識不明の状態に陥つていたことは原審証人中尾良賢の証言に依り固より当裁判所之を肯定するに吝ではないが正常の意識を有する本人が他人に本人の為めに或る行為をなすことを委ねた場合之を取消すことなく其の後其の本人が意識不明の状態に陥つたとしても其の意識不明に陥つた後法律上其の本人に代り得る者が右の委頼を取消さない限り尚本人が生存する間は前示他人は本人のために或る行為をなす権限を喪失する謂はないから右は前段認定の妨げとはならない」

と判示した。

即ち、本件家督相続人指定の届出をした当時届出人たる松下マツは病が改まり意識不明の状態に陥つていたけれども、マツは正常の意識を有する当時浩に委任したのだから、其の後右の委任を取消さない限りマツの生存する間は同人(本人)のために右行為をする権限を喪失する謂はないと云うのである。

しかし家督相続人の指定は戸籍吏に対する届出により成立する法律行為であつて(旧民九八〇条)事実行為ではない。而して家督相続人の指定は身分上の行為であり本人が自身で意思表示することを要し代理人によつて意思表示をすることを許されない。(穂積重遠博士改訂民法総論三五〇頁。石田文次郎博士現行民法総論三八三頁。鳩山秀夫博士日本民法総論下巻四〇五頁。我妻栄教授民法総則二六七頁。我妻、有泉共著民法総則物権法百四十五頁、柚木馨博士判例民法総論下巻一九三頁)身分形成行為であるから代理に親しまない行為たること明である。(勝本正晃博士新民法総則二二五頁)

而して家督相続人指定の意思表示は戸籍吏に対する届出によつて為すことを要するから、この届出は被相続人(マツ)自身がしなければならないのである。甲第二十四号証も被相続人たるマツ自身の名義で為されている。

家督相続人の指定も他人が本人の意思表示の伝達機関(使者)としてこれを為すに妨げない。しかし、代理にあつては、代理による意思表示は代理人自身の意思表示であつて本人の意思表示でないに反し、使者は、本人が決定した本人によつて完成された意思表示を伝達するものと、本人の意思表示を本人の意思であるとして相手方に表示するものとあるが、何れにしても意思決定は本人がするのであつて、使者は、これを表示する機関に過ぎない。従つて意思表示に関する意思の欠缺、詐欺、強迫、善意、悪意等は代理人による意思表示にあつては、代理人について之を決するのであるが(民法一〇一条)使者による意思表示にあつては本人について決せられるのである。(石田氏前掲三八〇頁、鳩山氏前掲三九七頁、我妻氏民法総則二六六頁、勝本氏前掲二二三頁、柚木氏前掲一八三頁)

本件家督相続人の指定は戸籍吏に対する届出により意思表示が為さるべきものであるところ(旧民法第九八〇条)届出の当時本人たるマツは意識不明であつたから家督相続人指定の意思表示を為すこと不可能である。即ちマツに意思の欠缺があるのだから浩はマツの意思表示を伝達することは出来ないのであつて、本件家督相続人の指定の意思表示(届出)は無効と云はねばならない。

原判決が「正常の意識を有する本人が他人に本人の為に或る行為を為すことを委ねた場合之を取消すことなく其の後其の本人が意識不明の状態に陥つたとしても其の意思不明に陥つた後法律上其の本人に代り得る者が右の委頼を取消さない限り尚本人が生存する間は前示他人は本人の為に或る行為をなす権限を喪失する謂はない」と判示しているところによれば、マツは浩に対し被上告人を自己の家督相続人に指定するにつき其手続一切を委任したのであるから、マツが其の後意識不明となつても、同人が生存する間は、浩はマツの為めに家督相続人指定の意思表示をする権限を喪はないというのであるから、マツの授権が有効に為された以上は其の後マツが意思能力を有しない状態になつても同人が死亡せざる限り浩の権限は消滅しないということであつて、これは代理権について始めて云い得ることである。即ち代理人は本人の授権によつて本人に代り本人の名において意思表示する者であり、その意思表示は代理人の意思表示であつて、本人の意思表示ではない、従つて代理権授与の後本人が意思能力を有しないようになつても、代理人が授権された代理行為をするに差支へを生じないのである。

代理人は能力者たるを要せざるものとされ(民法第百十一条)又代理権は、本人の死亡、代理人の死亡、禁治産又は破産、委任の消滅によつて始めて消滅するものとされるのも此理によるのである。

原判決が「其の後其の本人が意識不明の状態に陥つたとしても其の意思不明に陥つた後法律上其の本人に代り得る者が右の委頼を取消されない限り尚本人が生存する間は前示他人は本人の為に或る行為をなす権限を喪失する謂はない」と判示したのは、即ち、マツが意思能力を失つても浩に於てマツに代つて家督相続人指定の意思表示をする権限があるということに外ならないから、この授権は浩にマツに代つて家督相続人の指定という法律行為をする権限を与えるるものであり、代理権の授与である。

然るに家督相続人の指定は身分形成行為であつて代理に親しまない行為であるからかかる代理権の授与は無効である。従つて浩は意識不明となつたマツの代理人として家督相続人の指定届出の法律行為をする権限がない。故に浩のした本件家督相続人の指定は無効と云はねばならない。

要するに浩がマツの家督相続人指定に関与し得る場合は、マツが決定し完成した意思表示を使者として伝達する場合に限られるものである。

然るにマツは意識不明に陥つているのだから家督相続人指定の意思表示をする事実上の能力がない(意思の欠缺がある)。本人たるマツの意思が欠缺しているのだから、浩がマツの意思表示を伝達することも不能たること明かである。故に浩のした本件家督相続人の指定の届出は浩をマツの使者としてすることも不能である。

而して浩がマツの代理人として家督相続人指定の届出をすることは、身分形成行為であるため、代理人に親しまない行為であり浩は何等の権限を有しないからその行為は無効である。

然らば原審が中尾浩が松下マツに代り本件家督相続人指定の届出をなした当時本人マツは病改り意識不明の状態にあつたことを認め乍ら、

正常の意識を有する本人が他人に本人の為に或る行為をなすことを委ねた場合之を取消すことなく其の後其の本人が意識不明の状態に陥つたとしても其意思不明に陥つた後法律上其の本人に代り得る者が右の委頼を取消さない限り尚本人が生存する間は前示他人は本人の為に或る行為をなす権限を喪失する謂はない。従つて被上告人の本訴家督相続には何等間然するところがない、と判示したのは、代理の法則を誤解し旧民法第九八〇条に定むる家督相続人指定の届出は本人が自身でなすことを要し代理行為を許されないものであることを忘れたものであつて重大なる法律違背の判決と云うべく破毀を免かれないと信ずる。

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